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about lacquer painting

statement

Statement

漆をメディウムとして絵画を制作しています。けれども漆という材料は絵を描くことに特化したメディウムではなく、天然の塗料であるがゆえの不安定さを併せもちます。例えば塗りを行った翌日までにその色味は暗く鈍く落ちてしまいます。そして、数年間をかけて色彩や透明度を取り戻すのですが、これは植物の成長のように一様ではないものです。色彩の変化に加えて塗面のニュアンスにもまた乾燥時の湿度や温度といった環境に左右され、常に一定の結果が約束されるのではないある種の偶発性が存在しています。

こうした素材による不測の介入のようなものを私は肯定的に受け入れ、むしろ視覚的な表現行為と動的でさえある絵画の物質性との間にどのように意識や身体が介入できるのか、ということを考えています。たとえば周囲を取り込む鏡面の反射や、目に手を喚起させるようなマチエールのあり方において、材料(自然としての他者)/技術(自己)/鑑賞者のあいだでどのような関係が結ばれるのでしょうか。

また、材料に直接触れて確かめながら進めてゆく手作業では、工程のうちに生じる知覚を通じ、自身の原体験となった自然の記憶と共振するような感覚を得ます。わたしをとりまく全ての外界—自然に対してどのように向き合うのかということが、漆との関係を結び〈目と手、視覚と触覚、図像とかたちによる〉画面空間を作る行為になると考えています。

 

漆画

​漆画

漆の絵画は、フランスの植民地下にあった1930年代のベトナムにおいて西洋画と漆芸の間に〈sơn mài〉として誕生したと言われています。これが1960年代に中国の漆芸界に影響を与え、以降の中国でも絵画の領域に〈漆画(qī huà )〉が展開されます。ベトナムと中国の漆は性質が微妙に異なるものの、ともにウルシ科の樹木が植生するアジア東北部の漆文化圏に位置するしており、現在まで上記のような漆の平面表現が活発に描かれており、「絵画」の形式と「絵画」の表現を持つものとして独自の発展を遂げました。

一方日本においては、「絵画」の形式に則った漆の平面表現というものは存在するものの現在の美術界に明確な位置付けは見られていません。日本語の「漆絵」や「漆画」という語は、必ずしも絵画としてのあり方を定義するものではなく、浮世絵の技法から漆芸技法を指すものも含むように多義的です。そして日本では工芸の一部とみなされる〈漆パネル〉というスタイルが漆の平面表現として主流です。これらはあくまで工芸として発展したものであって絵画を名乗ることは避けてきました。絵画としての表現は、松岡正雄という油彩画家を中心に〈彩漆画〉が追求されましたが、松岡の死後はこれらの運動も途絶えてしまいました。

私は絵画と工芸の二つの領域にまたがる漆の平面表現を「漆画(しつが・うるしえ)」と呼び、両者の関係に光を当てたいと考えています。漆画が絵画の平面形式に則ったものであるとしても、それらは絵画/工芸という一見自明とされる図式では表しえないはずです。同時に「漆画とは何か」という問いに、何らかの既成ジャンルを当てることで答えることは本質的な解決にはなりません。むしろ、漆画が絵画—工芸という両義性をもつことには、既に確立されたそれぞれのジャンルが見落としてきたものを逆照射する力が秘められていると予感します。私は作品をつくりながら、より広い括りとしての「漆画」のありかたを紐解いてゆきたいと考えています。

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